編集長コラム

細川 忠宏

これでいいのだ!

2012年12月12日

子どもをあきらめた途端に授かったとか、治療を休んだ途端に妊娠したという話しは、本当によく聞きます。

「妊娠」というのは、まるで、追いかければ追いかけるほど、逃げていってしまうかのような、そんなところがあるようです。

妊娠、出産は誰にでも備わった"当たり前な身体の働き"です。

ところが、あきらめた途端授かったというようなことを、繰り返し、目の当たりにすると、新しい命を授かるかどうかは、"不妊原因があるかないか"、"不妊原因が取り除かれているかどうか"ということだけでなく、"身体の状態が授かる状態にあるかどうか"、すなわち、"身体の状態が新しい命を育める状態にあるかどうか"ということも大切な要素なのではないかと考えざるを得ません。

そして、自分の身体でありながら、その状態を自らの意志でコントロールできないどころか、コントロールしようとする意志が強くなればなるほど、授かりにくくなってしまう、そんなところもあるように思えてしまいます。

本当に悩ましい限りなのですが、考えてみれば、身体に備わっている"当たり前な働き"というものは、そもそも、自らの意志でコントロールできないようになっているようです。

生命活動の源である心臓の鼓動や全てのホルモンの分泌、免疫活動、そして、生殖器官の働き、しかり、です。

そして、それは、私たちの身体を構成している約60兆個の細胞は私たちの意志とは無関係に、自律神経が調整しているからです。

自律神経には交感神経と副交感神経があって、それぞれは、正反対の働きをして、お互いに綱引きをしながら、身体の働きや状態を調整しています。そして、交感神経は活動時に、副交感神経は休息時に優位になると言われています。

つまり、妊娠しようと頑張っている時には、妊娠しなかったというのは、交感神経優位な状態が続き、身体が妊娠しよう、新しい命を育もうとする働きを抑制していたからであり、頑張らなくなった、頑張ることを止めたら、授かったというのは、交感神経と副交感神経が本来のバランスを取戻し、身体が新しい命を育もうとする働きが正常化したからだと考えられるわけです。

実際に、免疫学者の新潟大学大学院医学部の安保教授によりますと、交換神経の緊張が続くと、血流障害が起こりやすくかったり、顆粒球が増加し、活性酸素の大量発生を招き、炎症を起こしやすくなったりすると言います。そのことは、卵の正常な成育や子宮内の着床環境の障害になる可能性があります。

過度な「妊活」、すなわち、妊娠のために頑張り過ぎるのは、自律神経のバランスに影響を及ぼし、かえって、妊娠しにくくさせる危険性をはらむわけです。

ポイントは、私たちのココロの状態とカラダの状態をとりもってくれている「自律神経」に働きかけることのようですが、そのためには、私たちが、ついつい、「頑張り過ぎてしまう」根本の原因に目を向けることが、最も大切なことだと思います。

私たちはこう考えます。

「妊活」とか、「妊娠力」、「妊娠法」という言葉は、妊娠するためには、何か特別な力が必要で、そのためには「何か特別なこと」をやれなければいけない、という誤解を招いてしまい、自分を必要以上に追い立ててしまうのではないかと。

そもそも、妊娠や出産は、私たちの身体に備わった当たり前な働きであり、決して、特別なものではありません。

また、妊娠することは、新しい命が女性のお腹の中で育まれるはじまりであり、何かが成就されるわけでもありません。

もっと言えば、妊娠は一つの通過点にしか過ぎないわけです。

見つめるべきは、通過点(妊娠すること)よりも、全体(新しい命を育むこと)であり、妊娠する力というよりも、すこやかな命を「育む力」と捉えるべきではないでしょうか。

もちろん、妊娠を妨げているものやことがあって、それを取り除くために、「特別なこと」が必要な場合もありますが、その場合でも、その後に必要とされるのは、健康ないのちを育む力です。

私たちが今年出会った「メディカルヨガ」の岡部朋子先生にいただいたアドバイスは、「自己肯定感を高める」ということでした。

自己肯定感を高めることが、副交感神経を活性化させ、交感神経と副交感神経のバランスをよくするというのです。

世間の言葉に煽られることなく、そして、自分を不完全な状態と捉えたり、自分を責めたりするのではなく、自分を認め、許し、受け入れ、大切にすることこそ、自分の中の育む力を養う、そう信じます。

そこで、私たちからの提案です。

事あるごとに、自分に向って、「これでいいのだ!」と言ってあげましょう。

子どもをあきらめた途端に授かったり、治療を休んだ途端に妊娠するということは、"授かる状態"、すなわち、"新しい命を育める状態"になるには、本当にちょっとしたココロの持ち方次第であるという証拠ではないでしょうか?