編集長コラム

細川 忠宏

"たまたま"ということをどう受け入れればいいのか?

2010年06月07日

新しい生命の誕生に際して、普通は、私たちに自覚できるのは、妊娠できたのか、妊娠できなかったのか、そして、無事に出産できたのか、流産に終ってしまったのかということだけです。

ところが、それ迄のすべてプロセスでは、途中で終わってしまうことが、必ず、ある割合であります。

卵巣では、毎周期、数十個の卵子が育ちますが、排卵されるのは、その中のただ1つですし、何千万、何億もの精子が射精されても、卵子の中に潜り込めるのは、たった1個の精子です。
そして、受精から着床、出産に至るすべての段階で、ドラスティックなドラマが、常に、進行しているわけです。

つまり、私たちが知らないところで、「選別」とよべばいいのか、「淘汰」とよべばいいのか、そんな場面がいくつもあるということなんですね。

このことについて、私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?

医療に携わるものは、「異常」とか、「病気」ととらえ、それを治療し、少しでも、改善しようとします。

ところが、異常や病気の原因は、すべて明らかにできるわけではありません。

そして、もしも、明らかになったとしても、必ずしも、治療できるとは限りません。さらに、治療しても、改善できるかどうか分かりません。

それぞれのプロセスで残るのか残らないのかは、偶然、つまり、「たまたま」そうなったとしか言いようがないのです。

妊娠するか、しないか、そして、流産するか、しないか、すべては、偶然の産物なのです。

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不妊の悩みを克服するには、妊娠の仕組みについて、"こうすればこうなる"という、必然性を理解し、それを信じて、努力することが大切です。

でも、それと同じくらい"こうしてもこうならないこともある"という、偶然性を、自分たちなりに受け入れることも、とても大切なことになってきます。

それでは、偶然性をどう受け止めればいいのでしょうか?

科学者は、確率論で説明しようとするのでしょうが、「機」が支配するというふうには考えられないでしょうか?

つまり、機が熟したかどうかということです。

それでは、機が塾すか、塾さないか、その分かれ道はなんなのでしょうか?

こう考えればどうでしょうか?

そのまま物事が進めば、やがて、そのことがその人にとってよくなる場合、機が熟したと言え、反対に、そのまま物事が進めば、やがて、そのことがその人にとってよくならない場合、未だ機が熟していないということです。

そして、そのことは、当事者である私たちには分からないことです。

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なかなか授からない・・・、
こんなに頑張っているのになかなか妊娠できない・・・、
ようやく妊娠できたのに何回も流産してしまう・・・。

本当に辛く、悲しいことだと思います。

でも、それは、機が塾していないということなのかもしれません。

なぜ、なかなか機が熟さないのでしょうか?

それは、大自然があなたを守ってくれているのだと、私たちは信じます。

だからこそ、母なる大自然に感謝したいものです。