新しい生命の誕生に際して、普通は、私たちに自覚できるのは、妊娠できたのか、妊娠できなかったのか、そして、無事に出産できたのか、流産に終ってしまったのかということだけです。
ところが、それ迄のすべてプロセスでは、途中で終わってしまうことが、必ず、ある割合であります。
卵巣では、毎周期、数十個の卵子が育ちますが、排卵されるのは、その中のただ1つですし、何千万、何億もの精子が射精されても、卵子の中に潜り込めるのは、たった1個の精子です。
そして、受精から着床、出産に至るすべての段階で、ドラスティックなドラマが、常に、進行しているわけです。
つまり、私たちが知らないところで、「選別」とよべばいいのか、「淘汰」とよべばいいのか、そんな場面がいくつもあるということなんですね。
このことについて、私たちはどのように受け止めればいいのでしょうか?
医療に携わるものは、「異常」とか、「病気」ととらえ、それを治療し、少しでも、改善しようとします。
ところが、異常や病気の原因は、すべて明らかにできるわけではありません。
そして、もしも、明らかになったとしても、必ずしも、治療できるとは限りません。さらに、治療しても、改善できるかどうか分かりません。
それぞれのプロセスで残るのか残らないのかは、偶然、つまり、「たまたま」そうなったとしか言いようがないのです。
妊娠するか、しないか、そして、流産するか、しないか、すべては、偶然の産物なのです。
---
不妊の悩みを克服するには、妊娠の仕組みについて、"こうすればこうなる"という、必然性を理解し、それを信じて、努力することが大切です。
でも、それと同じくらい"こうしてもこうならないこともある"という、偶然性を、自分たちなりに受け入れることも、とても大切なことになってきます。
それでは、偶然性をどう受け止めればいいのでしょうか?
科学者は、確率論で説明しようとするのでしょうが、「機」が支配するというふうには考えられないでしょうか?
つまり、機が熟したかどうかということです。
それでは、機が塾すか、塾さないか、その分かれ道はなんなのでしょうか?
こう考えればどうでしょうか?
そのまま物事が進めば、やがて、そのことがその人にとってよくなる場合、機が熟したと言え、反対に、そのまま物事が進めば、やがて、そのことがその人にとってよくならない場合、未だ機が熟していないということです。
そして、そのことは、当事者である私たちには分からないことです。
------
なかなか授からない・・・、
こんなに頑張っているのになかなか妊娠できない・・・、
ようやく妊娠できたのに何回も流産してしまう・・・。
本当に辛く、悲しいことだと思います。
でも、それは、機が塾していないということなのかもしれません。
なぜ、なかなか機が熟さないのでしょうか?
それは、大自然があなたを守ってくれているのだと、私たちは信じます。
だからこそ、母なる大自然に感謝したいものです。