編集長コラム

細川 忠宏

体外受精という方法について

2006年06月30日

読者の女性からよく相談されることがあります。

それは、体外受精を受けることについて、"不自然な方法で子どもを授かりたくない"という理由で、ご主人から反対されていると。

概ね、ご主人が反対されるケースが多いように思います。

もしかしたら、男性は、どちらかというと、理屈というか、頭で考えているのかも知れません。

それに対して、女性は、自分の身体に施されるにもかかわらず、やっぱり、自分のカラダが新しい生命を宿し、育むことに変わりない、そんなふうに感じているのかも知れません。

本当に難しい問題です。

この"方法"をよしとするのかどうか、要するに、自然な方法だけをよしとするのか、それとも、多少は、人為的なものが介在してもよしとするのか、また、介在の度合いがどこまでならよくて、どこからがダメなのか、心情的なものもあって、簡単には、結論なんて、出せない問題でしょう。

もちろん、私たちが、どうすべきかなんて、安易にコメントしたり、意見したりできる問題でもありません。

ただ、最近、"方法の善悪"など、本当は、たいした問題ではないのではないか、そんなふうに思えてなりません。

誤解して欲しくないのは、決して、生殖医療についての安全性や倫理について、どうでもよいなどと言っているわけでは、断じて、ありません。

切望しているにもかかわらず授からない悩みをもつ夫婦にとって、自分たちが、後悔しない、幸福な人生を築くために、取るべき手段について、二人の間に、意見や希望、感覚の違いが生じた際に、何を頼りに二人で結論を出せばよいのかを考えた場合には、"方法の善悪"について、 いくら話し合っても、お互いに納得のいく結論は得られないのではないかということを、 言いたいだけです。

大切なのは、"方法の問題"というよりも、あくまでも、当人の"姿勢の問題"ではないかと思うのです。

例えば、医療機関や誰かの"言いなり"になっていないか、本当に、自主的、かつ、自立的に決定しているのかという問題。

もしも、そんな空気をパートナーから感じたら、二人の人生を、力を合わせて築いていこうという意欲に、水を差されたような思いになっているだけなのかも知れません。

また、子どもを切望する余り、プラス面ばかりに、目が奪われて、マイナス面には、目を塞いでいるのではないだろうかという問題。

ここでも、二人の人生を一緒に歩きたいのに、パートナーが、一人で、かつ、盲目的に、先走っているような感じになっているだけなのかも知れません。

いろいろなケースがあるとは思いますが、多くのご相談に接していて、お二人から、よくよく、お話しをお聞きしてみると、"方法の問題"は、あくまで、表面的なものであって、結局は、"二人の問題"であることが多かったように思うのです。

家族を愛するということに、その方法が大事な問題になるなんて、いったい、そんなことがあるのでしょうか?

そもそも、方法の善悪など、何を基準に、誰が決められるというのでしょうか?